【今週の礼拝メッセージ】

 

  神のみことばを深く悟らせていただき、

  真理によって、歩んでいきましょう。

  神を知ることこそ、最高の幸福です。

 

 

 

  ◆幼子も礼拝します。あーめん。

 

 

 


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  めぐみキリスト教会のブログ「礼拝メッセージ」 に掲載しています。
            
       神様の恵みのメッセージを、味わってください。
        礼拝に出席できなかった兄弟姉妹もどうぞ

2022年3月27日 山口春雄牧師

「神はあなたを忘れない」

今日は、創世記41章全体から「神はあなたを忘れない」と言う題で、みことばから恵みを頂きたいと思います。

 

忘れられていない、憶えられていると言うことは、どんなに嬉しいことでしょうか、私は20年程前、中学校の同窓会に出席しました。当時の先生方にお会いし、私にことを憶えていますか?と尋ねると「山口君だろう、憶えているよ」と、言ってくれたことは本当に嬉しかったです。

 

しかし、神様が忘れないと言うことは、憶えているというレベルの事ではないのです。同窓会で会った先生は、私と会って思い出したわけですが、神様が「忘れない」という時は、憶えているというだけの意味ではないのです。例えば、母親は自分の子どものことを、いつもいつも心に留めているのと同じようにです(イザヤ49:15)

 

さて、創世記41章は、それから二年の後と言う言葉で始まっています。これは、ヨセフが監獄に中で二人の役人の夢の解き明かしをして、それが現実となり、これですぐに監獄から出られると思っていたのが、すっかり忘れられてしまったときら二年後のことです。

 

聖書を見ると、それから二年後、ついにヨセフに対する神様の新しい計画が動き始めるのです。ヨセフはよく耐え忍んで、この二年の時を待ったと思います。もし、その間ヨセフが何かジタバタして問題行動を起こしていたら、二度と監獄から出られなかったかもしれません。しかし、神の御手を信じ、静まって神の時を待ったのでした。

 

そこで、もう一度41:1をご覧下さい。ここで注目したいのが「二年」と言う言葉です。この言葉は、時間の流れと言うこと以上に、もっと深い意味のある言葉であると言うことを教えられます。

 

その一つは、神はすべての時を支配しておられると言うことです。つまり、私たちがどんなにジタバタしても、神の時が満ちない限り事は一歩も動かないと言うことです。それと同時に、神様は確かなご計画をもって私たちを導いていて下さるお方だと言うことが分かります。

 

そしてもう一つは、「二年の後」と言う言葉から教えられることは、「人は私たちを忘れても、神様は、私たちのことを決して忘れることがない」と言うことです。

 

ですから、私たちは、人生の中で思いもかけない絶望的な事が起こっても、それは運が悪いとか運命だと言って諦めるのではなく、すべて神のご存知の上での愛の取り扱いだと受け止めて、そこで最善を尽くして、キリスト者として神に喜ばれる生き方をしなければなりません。

 

創世記41章は、エジプトに奴隷として売られてきて13年目の時です。ヨセフ30才です。ヨセフに対する神の新しい計画が動き始めたのです。それがこの二年と言う言葉です。

 

具体的に、二年後何があったのかと言うと、パロ王様の夢の問題が起こったのです。当時、夢はその人の将来を掲示するものと言われていましたから、パロ王は、国の将来に係わる大切な何かではないかと心配したわけです。

 

そこで、国中の学者を呼んでその夢の解き明かしが出来る者を探しましたが、誰もいませんでした(41:8)。いなかったというよりも、王が怖くて係り合いたくなかったと言った方が正解でしょう。

 

そんなある日、王に仕えていたあの献酌官長が、ヨセフのことをここで思い出したのです。それで、ヨセフは監獄から出ることができたのです。

 

パロの見た夢の内容は、1節~7節に記されています。ヨセフは、パロ王の見た夢の解き明かしを見事にしたのです(16節以下)。それだけでなく、それに対する国家としての政策立案もしたのには、パロ王も驚きました(2933)。それによってヨセフは、エジプトの国で王に次ぐ第二の立場を得たのでした(3843)。この展開には、ヨセフ自身も驚いたことでしょう。

 

これは、ヨセフは運が良かったからではなく、どんな時にも神の御前に生きるという、信仰の歩みがあったからです。私たちも、キリスト者として常にそういう信仰でありたいものです。

 

2022年3月6日  山口春雄牧師

 

今日は、創世記37章1節~11節までのヨセフの生涯から「主の御手の中で」と言う題で、みことばから恵みを頂きたいと思います。

 

ヨセフの生涯は、創世記37章~50章までに描かれています。このヨセフ物語の特徴は、神の言葉や神のお姿と言うものが一切出てこないと言うことです。だからと言って神はおられないのかと言うと、そうではありません。登場人物一人一人の背後に神の御手が働いていると言うことを知ることができます。

 

聖書は、このヨセフ物語を通して何を私たちに教えようとしているのかと申しますと、私たちはどんな人でも、神の摂理の中で生かされているのだと言うことです。

 

今日は、ヨセフがどういう家庭環境の中で育ったのかについて見てみたいと思います。私たちはヨセフと言う名を聞くと、父ヤコブの愛を一身に受けてとても幸せな家庭で育ったと思っている方もいるかと思いますが、そうではありません。それどころか、非常に複雑な家庭環境だったのです。

 

父ヤコブには、レアとラケルの二人の正妻と、ビルハとジルパの二人の側室がいました。つまり、四人の妻と一緒に暮らしていたわけです。旧約聖書の中には、一夫多妻の家庭が登場しますが、だからと言って聖書は、一夫多妻を認めていると言うことではないので誤解しないで下さい。ですから、四人の妻が一緒に暮らしていたわけですから、家の中がおかしくなるのは当然です。

 

しかし、ヤコブはその四人の中で誰を一番愛していたのかと言うと、それはラケルです(創29:30)。ところがラケルにはなかなか子供が出来なかったのです。レアには七人、他の二人にはそれぞれ二人の子が生まれました。ラケルだけが子が出来ず、辛い日々を送っていたようです。

ところが、ラケルにもついに待望の赤ちゃんが生まれたのです。それがヨセフでした。ですから、ヤコブがヨセフを溺愛したというのも、こういう背景があったからなのです。その後ラケルにもう一人ベニヤミンが生まれるのですが、このお産でラケルは命を亡くしてしまいます。

 

さて、もう一度27章から見てみましょう。今日お読みしましたところでは、ヨセフはすでに17歳になっています。3節を見ると、ここには父ヤコブのヨセフに対する溺愛ぶり分かります。こういうことをあからさまにされると、妻レアとその子たちは面白くないでしょう。ヨセフを憎らしく思うのも当然です(4節)。ですから、この複雑な家庭環境の原因は父ヤコブにあったのです。

 

しかし、これからのヨセフのことを申しますと、ある意味わがままに育ったヨセフも、これから起こる様々な試練の中で、その性格が聖められ整えられていくのです。「艱難汝を玉にする」と言う日本の諺がありますが、その通りです。

 

どう聖められていくのかと言うと、どんな理不尽な出来事が身に降りかかってきても、決して人を憎むことがなく、いじけることもなく不平も言わずに、自分に負わされた重荷をしっかりと負って忍耐して歩んで行くのです。

 

しかも、自分のことだけではなく人々のためにも精一杯生き、自分の罪に対しては聖くありながらも、人の罪に対しては実に寛大な心をもって赦すことが出来、人々の成功を喜び正しい道へと歩むように導いていく、そういうヨセフへと変えられていくのです。

 

そして、そう言ったヨセフの下に崩壊した家族がもう一度一つになり、それだけでなくユダヤ民族を救うことになるのです。ですから、ヨセフが見た夢は単に夢想ではなくて、神様のご計画の一端を示すものだったのです。ですから、私たちも、神に示された特別な啓示と言うものを大切に心に留めと置かなければならないのです(ピリピ2:13,14)。

 

私たちも、今がどういう状態であったとしても、主の御手によって確かな道へと導かれていると言うことを信じ、各々に与えられた使命を全うしてまいりましょう。創世記50章20節